「外力」について

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一般に物理現象を考察する際には「系」を設定するが、どんな系に着目するか(何を系の要素とし、何を系外の存在とするか)は議論の主が恣意的・主体的に選ぶことであり、自分が今どう選んで考えているのかを明確に意識しておく必要がある。

くだんの「内力・外力」とは、系の要素が受ける種々の力を、「作用主が誰なのか(同じ系の要素か、系外の存在か)」で分類したものであり、どれが内力でどれが外力かは、系の選び方によって変わってくる。

しかし、現実問題として系を明記せずに「外力」という語が濫用されているのであれば、それが多義的に映るのは想像に難くない。この現状への本質的な対処は「外力」の使用を避けることではなく、常に系を明らかにすることではないだろうか。

(I)(II)(III)の外力を、系を意識して捉え直してみる。質点を持ち上げる力を「外力」と呼ぶのは、単に「質点にかかっているから」ではなく、「質点だけからなる系」を想定しているからであり、この系にとって運び手は系外の存在だからである。もちろん、運び手を系内に組み入れれば同じ力が「内力」と呼ばれることになる。

位置エネルギーの(よくある)定義においては、「物体と重力場からなる系」が暗黙に想定されていると考えれば、運び手による力は外力である一方、重力は内力となる。重力場を系から追い出せば、重力も外力になる。

運動量保存の文脈における「外力」も、それが系外からの力ゆえ反作用が系外に及ぶために、力のペアが(系内には)見つからないわけで、これは(III)に限らず外力一般に言えることである。ただ、そのことが 質点系の運動量の議論などでは特に意識にのぼりやすい、ということだと思う。

位置エネルギーの話に戻るが、重力場という得体の知れないものを系に組み入れる(重力の源である地球を組み入れるのとはまた異なる)というのは、初学者にとっては激烈に難しいことであろうと思う。通常の物体のように素朴に反作用を考えることができないなどの困難さもある。一方で、あのような位置エネルギーの定義において運び手の力だけが特に「外力」と呼ばれることは、定義の時点ですでにその「難しい系」が前提となっていることを意味する。

私なら、まずは素朴に「物体のみからなる系」を想定し、重力をほかと何ら違いのない外力と考えて、次のように定義する:物体が、ある点から基準点に至るまでに重力から受けとる仕事は、経路に関わらず決まっている(保存力)。その「もらう予定の」仕事を、その点における「位置エネルギー」と呼ぶ。

この系で考える限り、実際に基準点まで移動すれば、「重力からもらった仕事のぶんだけ運動エネルギーが変化する」という素朴な理解で事足りるが、ここまで来て初めて、大きな発想の転換を要求する。

すなわち、重力場を系に組み入れて重力を「内力」と考え、系のエネルギーとして運動エネルギーのほかに位置エネルギーを組み入れる。すると、同じ現象が、今度は「外力を全く受けていないので力学的エネルギーが変化しない」と解釈されることになる。

このように、同じ現象に対して従来の見方と新奇な見方を頻繁に行き来し、どちらでも辻褄が合うことを確認することにより、「なるほどそう考えることもできるのか」と徐々に納得できるのではないか。

ついでに「位置エネルギーのよくある定義」の状況も、二通りの系で解釈してみる。まず物体のみの系で見るなら「運び手からは正の仕事を、重力からは同じ大きさの負の仕事を受け取ってトータルゼロとなる(あるいは重力と運び手の力が釣り合っているので合力は仕事をしない)ため、運動エネルギーは変化しない」という解釈になる。いっぽう重力場を系に組み入れれば、今度は「運び手から受け取った正の仕事の分だけ、力学的エネルギーが (今回は位置エネルギーのみだが)変化する」という解釈になる。